まったく古さを感じさせない音楽の響き [音楽]

小澤征爾の武満徹 ノヴェンバー・ステップス

自分にとって「現代音楽」との邂逅となった1曲

 高1か高2の頃、友人が聴かせてくれた武満氏の初期作品「アステリズム?ピアノと管弦楽のための」こそが、自分にとってはいわゆる「現代音楽」との邂逅であった。明確なリズムの存在しない、不協和な音の塊。音と音との間に絶妙の間合いではさみ込まれる「沈黙」。著書『音、沈黙と測りあえるほどに』の題名をそのまま体現したかのような音楽。そして曲の終盤に現れる、聴く者に生理的恐怖感さえ感ぜしめる大音響のトゥッティ。すべての楽器の音が渾然一体となって、圧倒的な音量で迫ってくる様は、とても言葉で表現できるものではない。この曲については、かの村上龍氏も何かのエッセイで言及していたように思う。
 そのとき聴いたのは『小沢=武満’69』というLPで、他にも氏の代表的初期作品「弦楽のためのレクイエム」「グリーン」「地平線のドーリア」が収められていた。このCDはその4曲に「ノヴェンバー・ステップス」を追加したもの。どの曲もみな信じがたいほどの美しさを湛えている。無調の音楽、不協和音を主体とする音楽がこれほど美しいとは。初めて聴いたときは、それまで明確な調性を有する音楽しか聴いたことがなかったウブな高校生にとっては、衝撃以外の何ものでもなかった。
 改めて聴き返して、その頃を懐かしく思い出すとともに、まったく古さを感じさせない音楽の響きに、今さらながらに驚いている。

40年前 ニューヨーク州サラトガ音楽祭のプログラムから

今から41年前、1968年8月17日、Saratoga Performing Arts Center 1968 Season に小澤征爾さん指揮、鶴田、横山さん、フィラデルフィアオーケストラ、ピアノは J.Browning との共演のプログラムが見つかった。この曲はニューヨークで作曲されその年1967年11月が初演と云うから、まだほとんどの聴衆がこの曲を知らない時といえる。残念ながら私も知らない音楽ファンの一人で、この音楽会には出かけなかった。
遅ればせながら、懐かしさも手伝ってこのCDを購入した。
この曲を聴いてみて、当時の海外に住む日本人知識人層の知性への憧れ、洗練され神経質ともいえる純粋さ、決して日本的なものを西洋音楽に融合させるのではなく、言い訳を必要としない純粋な音楽の創造を目指し成功した作品であったと思う。
夏のリゾート地、半野外の大きな会場でこの曲が選ばれて演奏され、アメリカの聴衆にどんな反応を与えたか、この音楽会に出かけなかったことがいまさらながら惜しまれる。

仕事のbackground musicには向きません

僕が持っている武満の唯一のディスクです。どういうわけか職場においてあり、休日出勤の際に仕事をしながら、いつもかけるのですが、どういうわけか、仕事との相性はよくないようです。エクセルのワークシートをベースに、日経平均のdownslideシミュレーションがらみの作業をやったりすると頭がいらいらしてきて気が狂いそうになってしまう作品ばかりです。映画音楽(古都)として使われる際にはぴったりなのですか。

武満徹:ノヴェンバー・ステップス

タグ:小澤征爾

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